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HERO [自分]

例えば誰か一人の命と
引き換えに世界が救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

愛すべきたくさんの人たちが
僕を臆病者に変えてしまったんだ

小さい頃に身振り手振りを
真似てみせた
憧れになろうだなんて
大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

駄目な映画を盛り上げるために
簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは
希望に満ちた光だ

僕の手を握る少し小さな手
すっと胸の淀みを溶かしていくんだ

人生をフルコースで深く味わうための
幾つものスパイスが誰もに用意されていて
時には苦かったり
渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを笑って食べる
君の側に僕は居たい

残酷に過ぎる時間の中で
きっと十分に僕も大人になったんだ
悲しくはない 切なさもない
ただこうして繰り返されてきたことが
そうこうして繰り返していくことが
嬉しい 愛しい

ずっとヒーローでありたい
ただ一人 君にとっての
ちっとも謎めいてないし
今更もう秘密はない
でもヒーローになりたい
ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら
そっと手を差し伸べるよ

HERO (通常盤)

HERO (通常盤)

  • アーティスト: Mr.Children, 桜井和寿, 小林武史
  • 出版社/メーカー: トイズファクトリー
  • 発売日: 2002/12/11
  • メディア: CD


転機 [自分]

とてもありきたりなタイトルで、新年になったから心に決めたというわけでもないんだけど、そろそろ自分がどう成長していけばいいのか少しだけ分かってきたような気がするので、ここに綴ってみようかと思う。

僕は自分の目・耳に触れるものについて、その都度「それでいいのか?」「いや違うんじゃないのか?」から始まってあれこれ考えた結果「こうあるべきだ」という結論を出そうとするクセがある。

このブログも当初は、自分の得た体験を同じような環境に置かれた人に伝えていけたら・・・そんなつもりでスタートさせたはずだった。

ところが、実際は、自ら設問をなげかけ、そして自ら解いた結果を公開する、というパターンになっていた。
つまり、人に伝えたいというより、自問自答のために綴っていたというのが正しいと思う。
偶然にも読まれた人へ「伝えたい」という気持ちはいつの間にか薄れてしまっていたような気がするんだ。
きっと読んだ人は、突きつけられたような「威圧感」を少なからず感じたのではないだろうか。
「分かる人にだけ伝わればいい」・・・それでいいのだろうか。

「マジョリティ」を否定し、理詰めで「マイノリティ」を目指すことが、僕の進むべき道でいいのだろうか。
いつまでも「マイノリティ」でいることに充足感を得ていればいいのか?

ブログだけでなく、日常における対人関係全般において同じことがいえる。

もっと「伝える」ことを大切にしなければならないのではないかと思えてきたんだ。

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葛藤 [自分]

『おかしい、そんなはずはない。』

自分が望む人間像と、今の自分を客観的に知ったとき、そのギャップに愕然とする。

今の自分=自分の性格 に他ならない。

日常の様々な判断・選択をするときの基準が、「なりたい自分」 とは異なっていることから、その矛盾が生じている。

そのギャップはいつから生じ始めたのか分からない。

これからもギャップを放置したまま過ごすこともできるだろう。

「何が正しいのか」ではなく、「何が望ましいのか」という基準。
(「なりたい自分かどうか」)

常に自問自答しているのは、あまり気分のいいことではないけれど、少しずつ軌道修正できたら、近づけるかも知れない・・・「なりたい自分」に。

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期待 [自分]

今行けば間に合うかも知れない。
今を逃したら二度とチャンスはないかも知れない。
そんな焦った気持ちの向こうには、“Yes”のイメージしか存在していない。
もし、間に合わなかったら・・・それは、その時だ。
きっと上手くいく。きっと喜んでくれるに違いない。
他人から見れば、「何もそこまでやることはないだろうに」と言われても平気だ。
そう信じて、行動に移す・・・

結果は、
間に合えば“Yes”だと思っていたのに、たとえ間に合っても、相手の反応は期待から大きく外れたりする。

自分の誠心誠意が全ての人に伝わり、全て“Yes”で返ってくることは・・・ない。
たくさんの“Yes”よりも、たとえ少しであっても“No”が引っかかる。

自分が抱く期待と、結果とのギャップに悩み、疑問を抱いてしまうのだ。
じゃぁ期待しなければ、楽なのか?
期待を持たずに前へ進んで、楽しいのだろうか?

受験勉強はとても嫌だった。
ちっとも成功イメージが持つことができなかった。
満点を最初から取れるわけないと思っているのだから。
「滑り止め」に受かることに成功イメージを抱くことはできない。
そんなつまらない時期もあった。

大人になってからの僕は、行き過ぎた「誠心誠意」が“No”を受け取る心の準備を塞いでしまっているような気がする。

自分の期待とは別に、相手には“Yes”と“ No” の選択が自由にある。

行動に移す前に、「“ No”を受け取ったら・・・」まで仮定しておけたら、悩まなくてすむのかな。

自分を律し、人の期待に応える。
人を裏切らない、悲しませない。
たとえ聖人君子のように行動しても、“No”を受け取る用意が必要ということ。

そんな用意ができるようになれば、逆に人から期待された場合に“No”ということへの罪悪感から解放されるのだろう。


脱出 [自分]

僕はよく人から「もっと、肩の力を抜きなさい」と言われる。
そうは言っても、一生懸命やらなきゃ終わらないじゃんか、と思って、改まることはない。自分のやり方が正しいと思い込んでいる。
(何で気楽なことを言ってくるんだ??)

僕は小さい頃よく迷子になったと親から聞かされた。
今でも覚えている迷子が一つある。
それは家族で明治村に行ったときのことだ。弟もいたはずだ。
だが、何故か僕は1人広場で「動かず待っていなさい」と言われた。
僕は忠実に待っていた。が、いつまで待っていればいいのかが分からない。
ただ漠然として待っているうちに、「何かよくないことが起きたのではないか」と不安に駆られ、そして、その場から動いてしまった・・・。

僕は先が見通せない物事に直面することを極力避けようとする。
あるいは、そうした漠然とした先行きに対しては常にマイナスイメージを描いている。
(うまくゆくはずなんて、ありえない。何の根拠があるんだ??)

少し成長した中学1年のとき。

土曜日の午後、友達の家に集合して課題を班のメンバーで仕上げることになっていた。
初めていく友達の家だったが、目印の場所を教えてもらっていたので、いつもの癖で時間ギリギリに着くようにチャリンコで家を出た。
ところが案の定、道に迷った。
小学校の頃走り回っていた行動範囲とは異なる場所だったからだ。
いくら走っても言われた目印の公園が見つからない。
仕方なくお店で聞いてみたが、さっぱり分からない。

「もうダメだ・・・」

そんな切羽詰った状況になって、自分自身がそれまでの経験で編み出した『おまじない』があったことを思い出した。

それは・・・「見つからない、見つからない、見つけようとしたって見つからない」
自分のやろうとしていることとは正反対のことを念じること。

念じながら、力なくチャリンコを漕いでいると・・・
さっきまで、がむしゃらに走っていた道の少し先に、目印の公園が見つかった。
そこから目的の友達の家までは迷わずにスムーズに行くことができた。
たぶん少し遅刻しただろう。
でも、着いてしまえば、今までの八方ふさがりの状況とは全く無縁だった。

不安に駆られ、どんなにあがいても、解決の糸口が見つからないことがある。
でも、そんな時にいくらイライラしても先へ進むことはできない。

「肩の力を抜く」・・・そんな言葉は向上心を阻むように響く。
しかし、八方塞がりの状態にいるとき、前へ進むためには『逆説を唱えること』により、解決の道を自ずと進み始めることができるかも知れない。

何とも感覚的だけど、僕が小さい頃に実践して成功してきた脱出方法なんだ。


思考法 [自分]

「帰納法で考えてみればいい」と言われた。

帰納法?・・・高校の数学で聞いたような気がする。
逆に言えば、今の僕の思考法は「帰納法の逆」ということなのだろうか。

帰納法の逆・・・帰結法?
調べてみると「演繹法(えんえきほう)」らしい。
具体的な手法に、大前提・小前提・結論による「三段論法」というのがあるようだ。
(例)
①大前提(一般的原理)「人間は死ぬ」
②小前提(事実など)「Aは人間である」
③結論(個々の事象)「Aは死ぬ」

逆に「帰納法」は、
①事例収集(個々の事象)「人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ」
②因果関係(本質的結合関係):「人間だから死んだ」
③結論(一般的原理):「人間は死ぬ」
となる。

つまり「演繹法」と「帰納法」はスタートとゴールが逆転している、といえる。

それぞれの思考法には欠点がある。

「演繹法」では、前提条件に適切ではない、あるいは誤った前提を用いてしまう可能性があるということ。
自らが経験・体験した中から前提条件を抽出したところで、全ての事象に対して同じ結論を適用することは適切ではない場合があるということ。

「帰納法」でも同様に、事例収集が自らの経験・体験・志向を基準にしやすいため、導いた結論が推理になってしまう場合があるということ。

僕は、問題を提起される(察知する)と、大前提を考え、思いつく小前提を挙げながら、結論を急ぎ、「今どうすべきか」となる。
また、そうすることが最善だと思い込んできた。

けれども、「五重塔」を描いた時はどうだっただろうか。

描き出しには何度もやり直した。
バランスも考えていたはずだった。
しかし時間制限もあり、ある程度先へ進んだら後戻りできなくなっていた。
何とかまとめようとした。
結局背景は下書きらしいものを描けなかったため、白紙を埋めるような手法になってしまった。
が、点描風にした木々、雑に流した空。
そうした背景が出来上がってみれば、五重塔を惹き立たせる・・・まさに背景になっていた。

ゴールイメージを狭く絞り込んでスタートするのではなく、出来るところから始めて、ディテールを積み重ね、アイデアを形にしていく過程で、ゴールイメージは大きいものに変化していったのかも知れない。

結果として、周囲の評価がよかったのは、まぐれだと思っているけれど、どこか、演繹法と帰納法が上手にミックスして出来たような気がしてきた。


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