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クリスマスの思い出 [記憶]

僕が小学校1年から4年の1学期まで通った福山暁の星小学校。
宗教(キリスト教)の時間やフランス語の学習があったりするのがちょっと変わっていた。

給食の途中、たしか12時50分になると写真上段の十字架が掲げられた塔の中の鐘が鳴り響き、その間はどんな場所にいても目をつむり手を合わせて動いてはいけないんだ。当時は「だるまさんが転んだ」のロングバージョンくらいにしか思っていなかったんだろうけど(笑)。
またこの学校は元々女子校で、僕が入学した頃は1学年2クラス制で、1クラスに男子12人に対して女子24人くらいであったことも印象的だ。
そんなちょっと変わった学校では2学期の終業式よりも前に「クリスマス会」が行われていた。
何をしていたのか記憶がほとんどないけど、賛美歌を歌ったりしたような気がする。
大切にしまってあった写真下段の黄色い文集と一緒にキリスト誕生のカードが入っていた。
裏面には「きよしこの夜」の詞と隣に“1977年12月21日”と書いてある。
当時小学校3年生の僕がクリスマス会で先生からもらったんだろう。

最近は「クリスマス」というとあちこち照明で飾られて華やかで「愛が一杯」ってムードばかりだけど、僕が頭のどこかで望んでいるのは、賛美歌を同級生と歌って温かい雰囲気でいられるような場だと思う。

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葛藤 [自分]

『おかしい、そんなはずはない。』

自分が望む人間像と、今の自分を客観的に知ったとき、そのギャップに愕然とする。

今の自分=自分の性格 に他ならない。

日常の様々な判断・選択をするときの基準が、「なりたい自分」 とは異なっていることから、その矛盾が生じている。

そのギャップはいつから生じ始めたのか分からない。

これからもギャップを放置したまま過ごすこともできるだろう。

「何が正しいのか」ではなく、「何が望ましいのか」という基準。
(「なりたい自分かどうか」)

常に自問自答しているのは、あまり気分のいいことではないけれど、少しずつ軌道修正できたら、近づけるかも知れない・・・「なりたい自分」に。

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愛情と友情 [ありふれた日々]

愛情と友情の違いって何だろう。

同性か異性かの違いなのかな。
いや、動物に対する愛情だってあるからねぇ。

相手を思いやる気持ちに違いはないと思うんだ。

こんなことを気にするのは僕だけだろうか。

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期待 [自分]

今行けば間に合うかも知れない。
今を逃したら二度とチャンスはないかも知れない。
そんな焦った気持ちの向こうには、“Yes”のイメージしか存在していない。
もし、間に合わなかったら・・・それは、その時だ。
きっと上手くいく。きっと喜んでくれるに違いない。
他人から見れば、「何もそこまでやることはないだろうに」と言われても平気だ。
そう信じて、行動に移す・・・

結果は、
間に合えば“Yes”だと思っていたのに、たとえ間に合っても、相手の反応は期待から大きく外れたりする。

自分の誠心誠意が全ての人に伝わり、全て“Yes”で返ってくることは・・・ない。
たくさんの“Yes”よりも、たとえ少しであっても“No”が引っかかる。

自分が抱く期待と、結果とのギャップに悩み、疑問を抱いてしまうのだ。
じゃぁ期待しなければ、楽なのか?
期待を持たずに前へ進んで、楽しいのだろうか?

受験勉強はとても嫌だった。
ちっとも成功イメージが持つことができなかった。
満点を最初から取れるわけないと思っているのだから。
「滑り止め」に受かることに成功イメージを抱くことはできない。
そんなつまらない時期もあった。

大人になってからの僕は、行き過ぎた「誠心誠意」が“No”を受け取る心の準備を塞いでしまっているような気がする。

自分の期待とは別に、相手には“Yes”と“ No” の選択が自由にある。

行動に移す前に、「“ No”を受け取ったら・・・」まで仮定しておけたら、悩まなくてすむのかな。

自分を律し、人の期待に応える。
人を裏切らない、悲しませない。
たとえ聖人君子のように行動しても、“No”を受け取る用意が必要ということ。

そんな用意ができるようになれば、逆に人から期待された場合に“No”ということへの罪悪感から解放されるのだろう。


脱出 [自分]

僕はよく人から「もっと、肩の力を抜きなさい」と言われる。
そうは言っても、一生懸命やらなきゃ終わらないじゃんか、と思って、改まることはない。自分のやり方が正しいと思い込んでいる。
(何で気楽なことを言ってくるんだ??)

僕は小さい頃よく迷子になったと親から聞かされた。
今でも覚えている迷子が一つある。
それは家族で明治村に行ったときのことだ。弟もいたはずだ。
だが、何故か僕は1人広場で「動かず待っていなさい」と言われた。
僕は忠実に待っていた。が、いつまで待っていればいいのかが分からない。
ただ漠然として待っているうちに、「何かよくないことが起きたのではないか」と不安に駆られ、そして、その場から動いてしまった・・・。

僕は先が見通せない物事に直面することを極力避けようとする。
あるいは、そうした漠然とした先行きに対しては常にマイナスイメージを描いている。
(うまくゆくはずなんて、ありえない。何の根拠があるんだ??)

少し成長した中学1年のとき。

土曜日の午後、友達の家に集合して課題を班のメンバーで仕上げることになっていた。
初めていく友達の家だったが、目印の場所を教えてもらっていたので、いつもの癖で時間ギリギリに着くようにチャリンコで家を出た。
ところが案の定、道に迷った。
小学校の頃走り回っていた行動範囲とは異なる場所だったからだ。
いくら走っても言われた目印の公園が見つからない。
仕方なくお店で聞いてみたが、さっぱり分からない。

「もうダメだ・・・」

そんな切羽詰った状況になって、自分自身がそれまでの経験で編み出した『おまじない』があったことを思い出した。

それは・・・「見つからない、見つからない、見つけようとしたって見つからない」
自分のやろうとしていることとは正反対のことを念じること。

念じながら、力なくチャリンコを漕いでいると・・・
さっきまで、がむしゃらに走っていた道の少し先に、目印の公園が見つかった。
そこから目的の友達の家までは迷わずにスムーズに行くことができた。
たぶん少し遅刻しただろう。
でも、着いてしまえば、今までの八方ふさがりの状況とは全く無縁だった。

不安に駆られ、どんなにあがいても、解決の糸口が見つからないことがある。
でも、そんな時にいくらイライラしても先へ進むことはできない。

「肩の力を抜く」・・・そんな言葉は向上心を阻むように響く。
しかし、八方塞がりの状態にいるとき、前へ進むためには『逆説を唱えること』により、解決の道を自ずと進み始めることができるかも知れない。

何とも感覚的だけど、僕が小さい頃に実践して成功してきた脱出方法なんだ。


ちょっと、待て・・・ [ありふれた日々]

仕事で取引先から「至急」の連絡が入り、営業車で急行することになった。

この営業先は僕にとって苦手な場所だ。
言いかえると、「良好な人間関係を築けない相手」だが、取引である以上向かわざるを得ない。

「至急」のため、普段は使わない高速道路へ乗った。
ところが、すぐに事故渋滞の表示とともに、渋滞最後尾に着いてしまった。

「(高速を)降りようか」
「降りても信号だらけで遅い」
「渋滞表示は1キロだけだ、このまま待とう」
「事故は起きたばかりで渋滞は長くなる可能性もある」・・・

僕の選択は・・・「このまま待とう」だった。
普段なら恐らく「即、高速降りて一般道」を選択しただろう。

だが、賭けてみた。

結果、高速の降り口を通過してしばらく渋滞は続いたが、表示どおり1キロ弱の渋滞だけで解消された。

しかし、当初の「至急」に対してロスタイムを被ったことには変わりない。

高速道路を降りた後、抜け道を通り、大きな道へ出て、思いのほか空いていた道路をアクセルペダルを踏み込んだ。

(めずらしい!こんな大きな道路で前後に車が見えない。)

いつもよりもスピードがプラス10キロ以上出ていた。
制限速度からはプラス30キロちょっとだ。

僕は先を急ぐ気持ちと同時に警戒をしていた。

緩い登り坂をアクセルペダルを踏み込んだ。
信号も青だ。
バックミラーに目をやると、後続車は遥か彼方のまま。
前方の車へもまだ距離がある。
道は平坦になり、そして下り始めた。
アクセルを踏むこまなくてもスピードは上がりやすい。

そこで一瞬ためらった。

(ちょっと、待て・・・)

ほんの数秒前に見たバックミラーを再びチラッと見た。

すると・・・雲一つない晴天に照らされて眩しくて形がはっきり見えないが、あり得ない後続車が1台だけ走っている姿が見えた・・・。
瞬間!
僕はヒヤリとして踏むかどうかためらっていたアクセルペダルを隣のブレーキペダルに変えて一瞬踏み、ウィンカーを左へ出して流れるように左車線へ移った。
同時にバックミラーを見ると、「白バイ」であることがはっきり見えた。

「やばい!」「捕まった!」

そう思った。
なぜなら彼は、僕が気付くよりも前に追尾を始めたはずだ。

ところが、捕まらなかった。

僕が気付くのと白バイが追尾を始めたのが同時に近かったのかも知れない。

白バイはしばらく僕の右前方を走っていたが、急ブレーキとともに後方へ退き、誰も曲がらないであろう細い路地へ左折していったことをバックミラーで確認した・・・。

僕には再び先を急ぐ気持ちが頭をもたげてきた。高速道路の渋滞を取り戻さなくては。

(さっきの白バイは、Uターンをして自分の管轄を取り締まるだろう)

そして僕はアクセルペダルを慎重に踏み始め・・・数秒経った頃、半ば「癖」でバックミラーを見やると、やはり眩しくてよく見えないけど、ギラギラ光る白い小さな・・・バイク!そう、白バイだ。
僕はアクセルペダルを再び放した。
もちろん制限速度内だ。

彼は、一度逃した僕をどうしても捕まえたかったようだ。

だが僕はまもなく大きな道路から外れた。
白バイが尋常でない圧倒的スピードが出せない道へ。

明らかに今日の僕は普段よりスピードを出していたことを自覚していた。
だからこそ、白バイの存在を察知できたし、慎重だった。

そう、行動中に「自覚」できると、もう1人の自分がいることに気付く。

「ゴールを急ぐ自分」とは別に、「周囲に気を配る自分」が同時に存在していたように思う。

ただ単に、苦手な訪問先へと急ぐ僕は、白バイと「余計なかけひき」をしていただけかも知れない。
広くて前後に車がいない、事故の起こる可能性が低い大きな道路という条件下で・・・。

まぁ、捕まらなくてよかったんだけど(笑)。


思考法 [自分]

「帰納法で考えてみればいい」と言われた。

帰納法?・・・高校の数学で聞いたような気がする。
逆に言えば、今の僕の思考法は「帰納法の逆」ということなのだろうか。

帰納法の逆・・・帰結法?
調べてみると「演繹法(えんえきほう)」らしい。
具体的な手法に、大前提・小前提・結論による「三段論法」というのがあるようだ。
(例)
①大前提(一般的原理)「人間は死ぬ」
②小前提(事実など)「Aは人間である」
③結論(個々の事象)「Aは死ぬ」

逆に「帰納法」は、
①事例収集(個々の事象)「人間Aは死んだ。人間Bも死んだ。人間Cも死んだ」
②因果関係(本質的結合関係):「人間だから死んだ」
③結論(一般的原理):「人間は死ぬ」
となる。

つまり「演繹法」と「帰納法」はスタートとゴールが逆転している、といえる。

それぞれの思考法には欠点がある。

「演繹法」では、前提条件に適切ではない、あるいは誤った前提を用いてしまう可能性があるということ。
自らが経験・体験した中から前提条件を抽出したところで、全ての事象に対して同じ結論を適用することは適切ではない場合があるということ。

「帰納法」でも同様に、事例収集が自らの経験・体験・志向を基準にしやすいため、導いた結論が推理になってしまう場合があるということ。

僕は、問題を提起される(察知する)と、大前提を考え、思いつく小前提を挙げながら、結論を急ぎ、「今どうすべきか」となる。
また、そうすることが最善だと思い込んできた。

けれども、「五重塔」を描いた時はどうだっただろうか。

描き出しには何度もやり直した。
バランスも考えていたはずだった。
しかし時間制限もあり、ある程度先へ進んだら後戻りできなくなっていた。
何とかまとめようとした。
結局背景は下書きらしいものを描けなかったため、白紙を埋めるような手法になってしまった。
が、点描風にした木々、雑に流した空。
そうした背景が出来上がってみれば、五重塔を惹き立たせる・・・まさに背景になっていた。

ゴールイメージを狭く絞り込んでスタートするのではなく、出来るところから始めて、ディテールを積み重ね、アイデアを形にしていく過程で、ゴールイメージは大きいものに変化していったのかも知れない。

結果として、周囲の評価がよかったのは、まぐれだと思っているけれど、どこか、演繹法と帰納法が上手にミックスして出来たような気がしてきた。


少年の頃に描いた絵 [ありふれた日々]


小学校4年に秋の遠足と合わせて写生会があった。
広島県福山市にある国宝「明王院」の五重塔。

当時、僕はちょうど転校して間もない頃だった。
誰から期待されるわけもなく、ただ目の前にある建物をどう画用紙へ収めればいいのか、周りの人がスラスラと下書きを始める中、何度も頂上の部分を書いては消すことを繰り返していた。
結局、その日に描き終えることはできず、家に持ち帰って根気の続く限り無心で描いた。
この絵は、学年で「特選」に選ばれた。

しかし、市のコンクールへ出品することになったのは、同じクラスの女子が描いた作品だった。
今でもうろ覚えだが、僕よりもこじんまりとして全体構図がしっかりとしていたことを記憶している。

20数年経って、あらためて眺めてみると、あちこち「手抜き」した箇所も見えるし、当時の「ごまかした」部分も思い出されてきた。
そういえば、赤色の絵の具が切れてしまい、本当は朱色で塗りたかったのが2段目以下は茶色になってしまっている。

これ以降「五重塔」を超える作品を描くことはできなかった。

周囲の目を意識するばかりに、「上手に書かなければ」という思いと、負けた悔しさから「全体構図」を考えるようになり、描きづらくなっていった。

今、僕の思考は「ゴールイメージ」を考え、それを実現するために、どうしたらいいのか一生懸命考えて、すぐに単独で実行してしまう。

こんな僕では、「五重塔」のような出来事は二度と起こらないかも知れない。

p.s.
この日、僕は絵を描いていた近くに生えていたちょっと見かけない草のようなフサフサした植物を抜いて持ち帰った。
親が鉢へ植えたら元気に育ち、プランターがいっぱいになるまでになった。
花が咲くことはなかったが、暑さ寒さに耐えて枯れることはなかった。
その数年後、引越しをする際にプランターごと持ってきた。
そして、再度引越しをした現在の横浜にある実家の玄関手前に、今も元気に生きているんだよ、持ち帰って27年も経過しているのに。
こんなことになることをイメージできるはずもない。


「思考」と「感情」 [カウンセリング]

「感情」のコントロールはできないけれども、「思考」は必ずコントロールできるらしい。

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誰も責めない

今でも鮮明に記憶している、小学生のあの夏の日のことを・・・。

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